読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

懐中のトッケイ

わたしはここでかわいていく

モノノケダンス

随筆

自分は正常だなんて思い始めたときから、人は狂い始めるのだ。

 

動物というのはいいものだ。なにせよく動く。

動物というのはいいものだ。ともすればかわいい。

しかし我々はどうもこの動物という存在を指す時に、我々を抜いて考えてしまっていることが多い。これは理解が狭いことだ。

さらに言えば、動物といってその中でも哺乳類のみを指しているようなことさえある。これはたいへん狭い理解だ。

目の前のものを分類し、名前をつける、ということを覚えてしまった我々はどうも自分ばかりを度外視するようだが、どうしたって我々も本来は動物であるはずなのだ。ところがたいていそうは考えないものだから、他の動物の特定の行動(仲間を助ける様子や子をかばう親)を指して「人間じみた」だとか「人間的な」だなんて得意がって言ってみせることがある。

どうもうさんくさい話だ。

本当に我々は、そんなに「人間的な」動物なのだろうか。

ではないのだとしたら、それはもう動物に見られる行動である以上、あくまで「動物的な」ものだ。我々が勝手に名を冠していいものではないはずなのだ。

翻ってみれば、相手に乱暴を働いたり衝動のままにうごくようなことを「動物的」「けもののような」と表されることがあるけれども、どうも調べると彼らはその表現に反して極めて理知的で、我々ほどとんちんかんな生き物ではないようだ。序列や繁殖に関すること以外で同族を傷つけはしないし、中でも社会性の高いけものは、前述のような目的ですら同族を傷つけないように配慮し、最終的にはお互いの姿勢によって勝敗を明らかにするように発達しているものもある。なんとも「人間的」な営みが行われているではないか。

 

人の徳についてわざわざ説かなければならないのは、それが当たり前でなくなってしまったからだという意味の言葉をなんとかいった。こうした「人間み」を表す言葉たちが頻繁に使われるのも、もしかしたらそのせいかもしれない。どうも人間は人間に過剰な期待と信頼を抱きすぎているようだ。我々はそんなに大した動物ではない。

 

人間はちょっと考え過ぎなのではないだろうか。

 

例えば雪を見てはしゃぐイヌや、こたつに潜り込むネコ、日向ぼっこをするカメに、歌い上げる小鳥たち、それぞれがそれぞれに応じた行動というのを持っているものであろうとわたしには思われる。なにも、肩肘張って「人間らしく」いようとすることはないのではないか。

うれしくって走り出していくような。

恋人を取られて殺してやりたくなるような。

動けなくなるまで食べるような。

涙を流して抱き合うような。

ひとえにわたしは、そんな「獣性」を愛する。

いっそ馬鹿な顔をして踊り狂っているぐらいがお似合いの我々に、しかしなお、だからこそ、詩をうたう心が宿っていることを、わたしはさいわいに思う。

ノってきたなら、それがすべてなのだ。

 

だからそう、きみのうたを聞かせてくれ。

わたしはそれで踊るから。

連作30首『芳子(よしこ)のあと』

短歌

電話には出られずメールにて知りぬ金曜の朝祖母頓死せる

 

肉親の訃報を開きし親指にぞぶりぞぶりと血は脈打てり

 

折り返し掛ける電話に母はまたなんと明るい声で出るのか

 

通夜は土曜、式は日曜どこそこで、やや早口で伝えくる母

 

落ち着くにひとりフロアをうろつきぬやや席に着きまたうろつきぬ

 

引き出しの底より出でし処務規定引けば忌引きは三日とあらず

 

見透かさる ささやかながら見過ごせぬ額を挙げをる見舞金表

 

母を経て父の言伝受け取りぬ駆け戻るには及ばぬが、来い

 

幾たびか母とやりとり重ねをりつひには父の声聞けず夜

 

通夜の朝も車は動きパンは売れわたしは職場でうごめいていた

 

 

 

先駆けた兄がいとまを持て余しギターを触ってくれていたなら

 

ジャンクション近くの片側三車線が寄越す余白を縫うようにゆく

 

駐車して襟を正すもどの顔が正解なのか 答えよミラー

 

久しぶりに会うた兄らは髪形も毛色もスーツもまるで似合わぬ

 

存外に笑顔の見ゆる葬儀場にてやうやう表情筋をほどけり

 

参列者カードを受け取る 見も知らぬこのひとも親戚というから

 

オヒネリじゃなくてオメモジでもなくてなんだかもにょもにょ言って手渡す

(おっ)※ルビ

和尚さんのお経はあまりうまくないと叔母らは助六寿司を食らひて

 

棺追ひ控えに祖母の兄の来て和尚の上ぐるでなき経を上ぐ

 

火の番を父より任されし我ら騒げど電子線香はゆらがず

 

 

 

賽の五のごとくに僧の並び居り「ライブみたい」と兄のささめく

 

持たされし勤行集になき経に親族の指先は惑ひて

 

厄介者の記憶は思い出に変はりみなさめざめと泣く昨日今日

 

ひが泣きはできぬ 明るく逝くやうに一句を祖母の足元に添ゆ

 

遺書にありし戒名は祖父よりも高く苦笑せる父 出棺のとき

 

見納めて棺は窯に入りたり もう飯を食えというのか、そうか

 

この部位は、など焼肉じゃあるまいしざっくと細かくされていく祖母

 

一膳が消え一室が空になり仏間にカラー写真が一葉

 

このたびはどこそこからのお気持ちのほどもさやけきエクセルファイル

 

初盆も帰らぬ不孝 鹿児島の海にカメラは取り上げられつ

 

 

絶望という名の地下鉄

随筆

この箱は、わたしをいったい、どこへ連れて行こうというのだろうか。

ドアが閉まり、わたしの風景の一切は闇に掠め取られた。

 

これは都会と田舎をひとたび行き来したことのある人ならわかることだが、電車というのはよいものである。自分で運転しなくても、少しの運賃でからだを遠くまで運んでゆくことができる。しかも時間帯さえ選べば、おおかた座っているだけでいいのだ。こんなに都合のよいものはない。時折鳴らす警笛も「プァん」と小気味よいもので、レールの微妙な凹凸による揺れは、わたしをいつしか穏やかな眠りへといざなってくれる。

 

胸元のよだれは見なかったことにする。

 

田舎から都会へ飛び出して学生生活を送っていた時分は、こうしたことを特に気に留めることもなかった。まあなにせ他のいろいろが真新しくてそれどころではなかったのだから、しかたがない。たまの帰省にも移動時間が長いだけでさほど苦労したことはなかった。

しかし、卒業して実家へ身を寄せるという段になって、わたしの認識は一変した。

休日である。どこそこの美術館で気になっていた展覧会がある。よし見に行こうと思い立って、家の中に貼り出してあった時刻表を目にする。

ない。ないのだ。

電車がないのだ。

馬鹿を言ってはいけない。電車はある。確かにある。最寄り駅だって存在する。

しかしなんだこの時刻表の隙間は。

おびただしいまでの間隙は。

ここにきてようやくわたしは「帰ってきたのだ」という実感に打ちひしがれた。

いいや、帰ってきてしまったのだ。電車のない国へ。

わたしは予定よりずいぶんとあとの到着になってしまう電車に目星をつけると、やれやれと肩を落とした。そうしてもう一つ気がつくことには、駅までの移動手段が徒歩しか無いということだった。

わたしは目を見張って硬直する。

なにを当然のことをと思われるかもしれないがこれは大変なことなのだ。数キロという距離を歩けというのだから。文明人としては車を出してしかるべき距離である。しかしこのとき家人とその車はすでに出払っていて、わたしはやむなく準備を適当に済ませてとぼとぼと駅まで歩くことになる。ただ、心情としてはとぼとぼであるものの、電車をこれ以上逃すわけにはいかないので、これまたトッポトッポといったスピードで歩かねばならなかった。なんとか予定の電車に乗れはしたものの、なんだか打ちのめされたような気分で、わたしのからだは展覧会へと揺れる。揺れる。揺れる。

わたしは汗をかくのが大の嫌いなのである。

 

異常に少ない本数の列車には異常に少ない乗客しか見当たらず、さもありなんといったところである。住宅地から駅まで数キロもあるというのに、さしてバス網が発達しているわけでもない。このような地理的条件にあっては、地元の人間がさほど電車に乗ってどうこうしようもないのもうなずける話である。ここでは車のほうが断然に便が良い。車に乗っている方が自然な状態なのだ。何年も前に沿線主要駅近くの百貨店は閉店し、昔はいたはずの駅員が各地でいなくなり、券売機はきっぷではなく駅名の書かれた紙を出すだけの機械に変わっていた。

この路線をもっと下っていけば観光で栄える地域があるからには、さすがに駅や路線がなくなることはないのだろうけれど。しかし都会と観光地に挟まれた空白地帯の我々は、世間から隔絶されてただただやせ衰えていくだけのような気がする。

車窓には、えんえんと続く田園風景が広がっている。しばらくスピードが落ちないのは特急に乗っているからではない。鈍行ながら、停車する各駅の距離が長すぎるのだ。

しかしわたしはこの空白地帯の荒涼とした風景が実は好きだ。

確かにえんえんと続く田畑ではあるが、じいっと見ていると少し違いがあるのがわかる。遠くに工場が見えている。あの森は小学校の裏だ。冗談のような場所にある踏切は、自転車がやっとすれ違える程度の幅しか無い。打ちっぱなしのゴルフ場は、夜でも光っていてすぐにそれとわかる。ただジャスコには負ける、あれは別格だ。地域中の信仰を集める神殿のようなものである。今日も帰るころには煌々と祈りの火がともるのだろう。

主要駅で急行列車に乗り換えると、とたんに人が多くなる。いままで一体どこに隠れていたというのだ。絶対何人かはついさっきコピーペーストされた人間だろうと思う。ペースト産の人間たちでぎゅうぎゅうの座席になんとか座る。これだけ人がいるのに平気で眠ってしまうというのは、やはりどこかでみんながみんなのことをNPC(※)だとでも認識しているからなのだ。人垣で塞がれる風景とともに生身の人間は立ち消えて、ただ車内にはやや圧迫した空間と自分のみがある。心地の良い揺れ。眠っても致し方ないというものだ。

(※Non Player Character…ゲームなどで設定されている、プレイヤー以外の操作されないキャラクターのこと。ざっくり言えば村人A。)

 

終着駅で地下鉄に乗り換える。今度は押し込まれるように立って乗るしかなかった。目の前でドアが閉まり、得体のしれぬ何者かたちに背中を預けながら、わたしは窓の外を見ていた。グンと初動があると、車体はレールを滑るように動いていき、車窓からホームの明かりが遠ざかる。フッと暗くなる。残ったのは、揺れと、音と、圧迫である。窓があるのに景色が見えないということはわたしを不安にさせた。

トンネルというのはまだありがたいものである。そのおおよそが、山腹を貫通して進むために掘られたものであるから、どんなに長くても山を抜ける時が必ずやってくるからだ。

しかし地下となればどうだろうか。なんとなく乗ってしまったこの地下鉄は、地下を進んでいるからして、突然地上に出ることでもしない限り、なにも次に明るい場所に出られるとは限らないのだ。もしかしたらどこかでこのレールは細長く巨大な化け物の口腔とつながっているかもしれなくて、明かりの見えぬ間に我々は日夜知らずその化け物の口腔から肛門を高速で通り過ぎ、そのたびに何か栄養を抜き取られているというようなことはないだろうか。なにも考え過ぎなどということはない。時折視界をよぎる明かりは、外皮を通して周囲を照らす発光器を内側から見ているのかもしれない。いったい誰が走っている地下鉄の外を確認したことがあるというのか。窓に見えるのは反射した自分のしけた面だけだと、本当にみんなそう思っているのだろうか。

わたしは振り返って乗客の顔を見ようとして、ふっとみんなNPCであることを思い出した。この中で生身で考えているのはわたしだけなのだ。

わたしは反射する自分の眉間の奥に、断続する発光器官の隙間に、なにか粘膜めいたものが見えはしないだろうかと目を凝らした。

そうして次の駅が近づき、スッと大きな明かりが視界を覆いかけたとき、わたしは反射していた自分の顎のあたりに、ヌラリとした輝きを確かに見る。

あれは確かに化け物の粘膜である。そうわたしが感知したのはホームに押し出されたあとのことであった。NPCの波に乗りながらエスカレーターを上っていく中、ふと考える。このままのんきに美術展など見に行ってもいいのだろうか。わたしはなにか大変な体験をしたのではなかろうか。もしかしてみんな、アレに食べられてNPCになってしまったのではないか。だとしたら私の喉元に光っていたあの粘液、わたしももうすぐNPCのひとりになってしまうのではないのか。

む。む。む。

そうしてうなりながら顎の下に手を当てると、冷ややかな感触があり、すべてを察したわたしのもとへ一挙にもろもろの感情が去来する。

ああ、その、

 

これはさっき見なかったことにした、わたしのよだれである。

 

わたしはトッポトッポと美術館へ向かった。

 

帰りの鈍行列車の車窓には、例の通り打ちっぱなしのゴルフ場と、爛々たるジャスコ城が遠くある。多くの人の目に触れず、なんとなしに流れ去っていってしまうこの景色の中にもどうやら人間はいて、ひとりひとり、冗談のような踏切でイライラしながら鈍行のゆくのを待っていたり、小学校の体育館でクラブスポーツをしたりなどしているようだった。わたし以外の人間が日々を生きているのは至極当然のようで実はとても不思議な事であるけれども、やっぱりなんとなくそうであるのかもしれない。

NPCはもうおらず、わたしの周りは、わたしと同じ人間で溢れかえっていた。行きより少し人の多い車内の景色はむせるようににぎやかで、すこし、めまいのする思いだ。

最寄り駅で降りる。わたしの手には美術展で買ったポストカードの入った袋が提げられている。同じように街へ遊びに出ていたらしい何人かが降りてきて、家族であろう迎えに来た車に乗ってビュンといなくなる。その車にもナンバーがある。運転している家族がいる。嘘のようなことだけれど、きっとほんとうのことなんだろう。

そんなふうに思うのだから、わたしは確かにあの地下鉄の化け物に、なにかを食べられたのかもしれなかった。ハンカチでぬぐったあのよだれは、もしかしたら、やっぱり。

わたしは迎えを頼まなかった。もし迎えに来てもらった家族がNPCだったりしたら困るので、これは家に帰ってみるまでとっておこうと思ったのだ。

そんなわけでわたしはまた来た道を数キロも歩いて行くことになったのだが、その足取りは来た時のようにとぼとぼもしていなければ、特段トッポトッポする必要もなかった。

 

ただおなかがグウとなったので、わたしもなにか地下鉄めいたものを口に入れたい気分であったことは確かだ。

連作15首「稽古の納め」

短歌

※ちょっと神道関係の言葉が入るので、意味を調べてもらうとより結構です。

 

―――――――――――

 

一年を稽古で締める数寄者の二十余名の顔ぶれを見る

 

大祓を上げをる声に師の若き神職のころを思ひつつゐる

 

柏手を打てば神事はやみゆきて一礼の間に指に入る熱

 

病みてなほ畳に立てる師の面はさきに見しよりややこけてをり

 

勢いよく飛びたる人の畳打つ音の軽さに技を覚ゆる

 

跳ね起きて投げられてまたゆくなかに気はつながりて途切れずにあり

 

おのが身を削ぐがごとくに受け身してやうやう道着の重くなりゆく

 

相坐して礼することの幾十回 やっと心が澄んできたのに

 

毎回の稽古はこの技で終わる七つで習ひまだできかねる

 

直会と称して囲む一升瓶 投げ合うた手で清め合ふこと

 

神酒寄せて師の盃をうかがへり 食道癌と言うたぢゃないか

 

「わりあいにいけるでしかし、おうすまん」今のうちかもなどと思ひて

 

神前にあれど四ツ足のうまきことなくなればまた作る豚汁

 

十年ぶりに畳を踏みし長兄の「来てよかった」を聞けてよかった

 

来年も来むとぞ思ふあとすこしの言祝ぎを待つ稽古の納め

 

 

――――――――――

去年は身内に不幸があって、新年の挨拶がろくにできていませんでした。

 このほど心の罪穢れは道場に流してきたので、心機一転がんばります。

みなさん今年もよろしくお願いします。

連作50首『八畳魔のかんぴんたん』

短歌

5月に角川短歌賞に応募した。ひーこら言って作った50首。

数ヶ月前のことなのにもうずっと前に思える。今見返したって拙い歌。

でも確かに、あのときのわたしのいちばんを出した。

もちろん結果はなしのつぶてでかすりもしないが、きっとこれでよかったのだ。

わたしが増長するには、まだ早すぎる。

 

 

   八畳魔のかんぴんたん

 

1四人掛けごたつに足は漂泊す無辺の孤独は八畳にあり

2姿見に猫背を指摘されているうなずきながら下ろす掛け布

3誰も見ないしぐさばかりが慣れてきて三つ牛乳パックをひらく

4お前とも長いな あの子が刺したきりほくろになったえんぴつの黒

5ささくれし指にしみいる水仕事母さん何にも言わなかったな

6なまくらと疑っていて悪かった押し切る癖はまだなおせるか

7レシピなる母の方程式のもと解へと煮込まれている立体

8「帰ってこい」と言わないまでも帰省するたびにやまほど持たされるジャム

9拝啓母さん おかげでうまくなったけど食べさせる人がいません 草々

10愛想のない字だ父からの封筒はおとなのかみでみちみちている

11シャワーでは流せぬ泥の言を浴び排水口をぼうと見守る

12知らぬまに洗濯ものは山をなす明日は雨だ明後日も雨だ

13ひとすじの電波となってぴゅんと飛ぶ恋文が怒りが妄想が

14薄はりは火酒かたぶける音ぞよき「ら行」で口説く人が恋しい

15家中をたたき回って狂飆のトントンタタタン南無ダンボー

16明けがたの街を切り裂くつばくらめ来なくてもいい今日が来たのだ

17群れをなすセーラー服よ学ランよわたしの電車はいってしまった

18仕事場の下駄箱に住み着いた彼が「けえろ、けえろ」と言うやつでして

19雨の日は半径六十五センチの音楽室がわたしをむかえる

20何週もあとのひとつの休日にしるしたみどりが燃料となる

21暗がりの給湯室で息をつく沸くなよずっとカルキ抜いてろ

22小刀でけずったようなフライデー折れそうだけど焼酎で飛ぶ

23エンジンをかけろ甦るときは来たわたしを証す休日の朝

24つつましく観光の手もあったのか気づけば岩を噛む登山靴

25前をゆくひともついてくるひともなくて濃霧のなかのあんぱん

26尾根道の古木まっすぐ陽をうけて影いっそうにひんやりと落つ

27かえりみる町はちんまりしてしまいこのまま行方知れずもいいか

28頂へ登りつめれば空ちかく一切がわたしを祝福す

29世に病んで下界で死んだ先輩よあなたが連れてきてくれた山だ

30圏外を確かめてから聞くラジオ別段誰を待つわけじゃない

31NHK気象通報淡々と呼ぶ名にルドナヤプリスタニあり

32山歌と地酒は相性が悪いすぐ泣いてしまうわたしも悪い

33帰ったらやろうと思うことは多々できたためしがなくたって多々

34残月の白きに枝は黒々とあんなに伸ばしてやめときゃいいのに

35みずみずしい赤みを放つ太陽だ峰もわたしも色めきて春

36せな白く黴にまみれしひきがえる朽ちつつも目は子らにそそがれ

37みあぐれば魔法陣なり 鉄塔のシンメトリイをはしれ稲妻

38あっけなき一歩 さりとて長大な旅路の結ということにして

39日焼け止めを忘れたあとのひと風呂の肌にひろごる背徳の赤

40せんぷうきを前におとなは消え去りて世界征服したあとの風

41冷めやらぬままに身投げの座布団よ畳の目へとしみる放埓

42綿服を着れば日常帰り来て心平詩集に余韻をゆだぬ

43残された午後にかろりと豆挽けば日曜もやや足をゆるめて

44出しかけて戸棚に戻しやはり出す白磁に青のおそろいのマグ

45カフェオレをはるか泳いでゆけくじら向こうであの日の君待たずとも

46湯に挿せば万年筆は濃紺の過去をすすぎて血を流したり

47文机に向かいひぐらし甲斐もなくそれでは散歩に行ってきますね

48誰が知る蜘蛛のブランコすることを公園にもう遊具はなかった

49あぜ道に私鉄の遠きより響きスカタンカタン馬鹿にされをり

50アスファルトにはりつくカエルのかんぴんたんそんなにたいらになってしまって

飴町ゆゆき自選50首

短歌

2月に短歌を始めて半年が経った。

うたの日で題詠歌会に参加すること3ヶ月余り。6月からはTwitterでフォロワーから題を募っての作歌が多くなった。その間も月1回、名古屋で常時10数名規模の歌会(大辻隆弘氏主宰:オアシス歌話会)に参加させてもらうなど。

そうこうしているうちに、詠んだ数は200首を越えていた。賞に応募した未公開を含めるともう少し多い。

なんだかよそ様からお題を与えられないと筆の重い気質であるらしく、そのほとんどが題詠である。とはいえまあそこそこ貯まったので、ここらでひとつ自作を整理しておきたいと思い、比較的気に入っている歌をてきとうに選ぶことにした。やっぱり応募用に本腰入れて作ったものは気合も入っていていいのだけれど、こちらはもう少し未公開にさせてほしい。まあ、落ちたことがわかればまたどこかで読んでもらう機会もあろう。そのときはよろしくたのむ。

 

そんなわけで、飴町ゆゆき自選50首。

口語のうたも文語のうたもごちゃまぜなので、読みにくかったらすまない。

ひとつでも、読者諸氏のお気に召すものがあれば幸いだ。

 

 

 

1大きなる手にひかれたる我が目にはジャスコはぴかぴかにひかつていた

 

2眉根寄せちちんぷいぷい唱へてはボタンもしめで飛び出せる朝

 

3チルド室見つつ母聞く「ハンバーグがいいと思うひと」ハイ! ハイ! ハイ!

 

4ざざぶりの大喝采に飛び込んで誰にもさえぎられないわたし

 

5なにとなく指に差したる頃思ひちくわれんこん箸をはこべり

 

6エウーレカ、ハートは胸にあらざりき 唯物論に今朝触れし君

 

7あまりにも白きにすぎるカレンダー目の付きし日に色塗れば春

 

8道端の空箱を指し「マルボロ」と見よがしに笑む女子高生あり

 

9愛してる殺してやるの真っ赤な恋うすめてカワイイなどと乙女は

 

10ほどかるるためのかたちをきつく締むまだなんぴとも触れぬ胸もと

 

11たてじまのシャツにカーキのカーディガン古典教師の私生活見ゆ

 

12もうこれで逃がさないよと仮縫いのわたしをすっと引き抜いてみる

 

13二の丸へ攻め込まれたる心地してやにわに胸にかける閂

 

14発砲を許可願います 対象はパーソナルスペースに停滞中

 

15目に痛き色とりどりが開かれてそっと安傘をさす放課後

 

16まだ君と同じ高さの目と声で笑ってられた三月があった

 

17何パーと数えるほどの恋だった季節は流れていくはずだった

 

18あげたのが誰かはきけずそっと抱くあなたの第二第二ボタンよ

 

19ブラックラブホールにふいに転げ落ちゆきて帰らぬわたしが見たい

 

20たったひとつこれだけなんてものはない忙しいのはいけないことか

 

21黒々と大きなるかなスピーカー有象無象を蹴散らして鳴け

 

22たましいの半熟たまごの作り方480秒間踊る

 

23おさかなを上手に食べるひとに弱い。さばけるひとにはめっぽう弱い。

 

24見解の相違、国交一時やめ。「目玉焼きにはソースよ」「塩よ」

 

25重苦しい夜も「うなぎ」の一言でお開きとなる我が家に幸あれ

 

26わたしとの約束ふいにするほどの男ができたとみていいんだね

 

27風船のような恋だった。舞い上がってはち切れて、何も残らなかった。

 

28おそろいのマグに罪無きくじらの絵むこうでも君泳げカフェオレ

 

29思ひ出がキャタピラ鳴らし迫り来て地雷ヶ原を一心に駆く

 

30化石したわたしが発見されました防御姿勢でひきだしの奥

 

31まど・みちおのくまになりたい 春が来て自分が自分じゃないよな不安

 

32チョコにする、やっぱりベリーも捨てがたい、メロンもいいし、ぜんぶください。

 

33野良三毛を息せき切つて見送れりうぬはいつしも猫曜日かよ

 

34せめてもの抵抗 わたしは肉球を持たざるゆえに爪をみがいて

 

35手を握る 次殴られたら出ていくと言ったあなたがまだここにいて

 

36あれもこれもと背負つてつぶれて泣いてゐるわたしはそんなに強くなかつた

 

37名のあとの@できっと濁るもの漂白せよ漂泊せよわたし

 

38ガタと鳴り掠め取られし風景よ音だけ置いてきやがって特急

 

39衛星のドライブインには星屑という名のこんぺいとうが売られて

 

40わたくしの中の朝日に出会うため三つ四つ含む甘き明星

 

41ここですと星がきちんと落ちるようカラにしておく黄銅の鉢

 

42けたたましき遊説つづく七日間じじじわわわわこと切れる蝉

 

43ポケットをやましからずもまさぐりて鳥居のごとく探知機を過ぐ

 

44他の花を殺め紺碧なほ盛ん雁首ならべをる鳥兜

 

45くさをはみくさをはみしてあの硬き、鋭き角を持てるインパラ

 

46一陣のジャムセッションが鳴りわたり紅の野はブビンガブビンガ

 

47バベルから離れ互いに花束を贈る月夜のトライリンガル

 

48なにそれと言われちゃってもわたしにはこれがいちばん、いちばんだもの

 

49星を見ることを覚えて日は過ぎて肩抱くひともなくて砂浜

 

50ポロックのごとく硫黄の乳を噴き島はさみどりに浮かんでゐた

 

 

 

 

 

 

 

f:id:canduuky:20160820165222j:plain

20160811 鹿児島県三島村・薩摩硫黄島

鉄風 鋭くなって

随筆

 鍛えよ。

 鍛えねばならない。そうした観念がわたしには数多くある。

 頭を鍛えよ。わたしにはまだ知らないものが山とある。何を知らないのかもまだ知ることができていない。

 目を鍛えよ。わたしは何を見るか。何が見えているか。見たいように見るだけでは、あの人の見た景色までは見ることができない。

 耳を鍛えよ。わたしは何を言われているか。それは小さな称賛か、裏返しの皮肉か、あけすけな罵詈か。聞き分けねばならない。そうして何を聞くべきかも。

 手を鍛えよ。わたしはその手に何をつかむか。きっといままで差し伸べられなかった手があった。握れなかった手があった。その代わりに握っているのは、いま、ペンだ。

 鍛えよ。鍛えねばならない。

 いったい何を?

 何物でもない、一切をだ。

 

 一本の刀が出来上がるまでに途方もない過程があるのをご存じだろうか。職人にしたって一人で全部できるわけではない。幾人もの人の手を渡り、初めて一本の刀ができる。

 外身から考えるとわかりやすい。さすがに現代で刀を持って歩いているひとがいないからといって、昔の人が抜き身の刃物をぷらぷら持ち歩いていると想像する人は少ないだろう。持ち歩くには何か入れ物があるはずだ。

 それが鞘だ。ものによってさまざまであるが、木、金属、革、漆など、さまざまな素材を組み合わせてできあがっている。鞘師と呼ばれる職人がいて、これの制作にあたる。あまり詳しく知らない人でも「刀は武士の魂!」のような文言は聞いたことがあると思うが、その外面を飾るのであるから鞘というのはなかなかに重要な部品である。この鞘からはひもが伸びていて、鞘を差した帯にこれをくくりつけることで固定したり、部屋に飾る際のかっこいい結び方などもあるのだが、これはまた別の話。刀の形に合わせて作るため、一本一本長さや反りが違い、鞘はその刀専用に作られるものである。反りが合わないとか元の鞘に収まるというのはそういうことからきている。

 鞘の他にもまだ外身はある。よくアニメや時代劇で刀を抜く前に「チンッ」と親指で鞘から押し出すようなしぐさをするが、あのとき押し出されているのは何か。

 鍔である。刀の刀身と柄の間にある平べったい金属の板だ。つばぜり合いというのは鍔と鍔が接するくらい刀を噛ませ合って競り合っている状態のことだ。鞘が横からよく見えるのに対し、鍔は前からよく見える。鍔の形もさまざまだが、たいてい中心に沿って二つの大穴が空いている。ただのデザインではない。また別の小柄・笄というアイテムを装備するための穴なのだ。簡単に言うとめちゃめちゃ小さな小刀と、まげを整えるための特殊なコテみたいなもので、お侍のエチケット用品である。鍔だけでなくこれらもまた専門の職人により作られ、小柄にももちろん小さくきらびやかな鞘がある。

 しかし鞘と鍔だけでは刀は飾れない。だいいち、どうやって握るのか。

 もうひとつ重要な外身は、柄だ。刀身の根元を包み、刀身と手を保護すると同時に、ここでも大いに着飾る。恐らく多くの人のイメージにあるのは、白いひし形の模様だろう。あれは一番外側に巻きつけたひもで作られている。素材を固定し、グリップを確かにする機能だけでなく、そこには整えられた美がある。ひもの下、つまりひし形で見えている白い部分には何があるか。少し驚かれるかもしれないが、あれは鮫皮だ。なにもわさびをするだけのものではない。軽量かつ頑健な素材として好まれているが、あんなに小さな持ち手とはいえ、見える部分として粒の大きな皮が使われ、これがグリップをより強固にしている。鮫皮とひもの間には実はもうひとつ目貫という金具が挟まれる。ひし形の間から細かに装飾された金具がこれで、刀の中でも特に目立つ部分として凝った意匠のものが多い。注目の集まる目貫き通りというのはここから来た言葉だ。あとはまあほかにいろんな部品があるにはあるがひとまず置いて、これらを竹の釘で留めれば柄の完成である。もちろん、柄巻師という職人が存在する。

 そんなわけでようやく外身が出来上がった。もう大変だ。こういった外面は職人たちが好き勝手に作るわけではなく出来上がったとき全体が統一されていなければならないので、もちろんそこには打ち合わせであるとか、あるいは職人同士の技のかけあいのような特殊なコミュニケーションもあったことだろう。いわば預かった刀の総合プロデュースがこういった職人たちの仕事だ。

 

 しかし刀は刀、刀身があってこそだ。竹光ではいられない。

 

 刀が前述の鞘師や柄巻師といった拵の職人の手に渡る前、砥ぎ師が刀身としての仕上げをする。これもまた専門職で、製作だけでなく修理や調整もこなした。刀が砥ぎ師に渡る前、ここで刀身が作られる。刀匠とよばれる人たち、鍛冶の仕事である。

 やっとスタート地点に返ってきた。鍛冶、すなわち、刀を鍛えるのはここだ。

 鍛える、という言葉は大まかにいうと金属を叩いて強くするということだ。これ自体はあながち、多くの人の間で齟齬があるわけではないように思う。しかしこれはあくまで、大まかな意味だ。実際の鍛えるという動作について少しここに書く。

 やっとこで熱した鉄片を固定し、大きな鉄鎚を振り下ろし、叩く。カイイン、と音がする。パッ、と火花が散る。もうひとりがさらに叩く。音がする。火花が散る。もうひとりがさらに叩く。音が。火花が。叩く。音。火花。叩く。音。火花。

 鉄を鉄で叩くわけで、しかも叩かれる方の鉄は熱されている。鉄は熱いうちに打て、というのはこのことで、熱された鉄は打たれるごとにその展性を発揮し、徐々に形を変えていくのだ。炉から取り出されて赤くなった鉄が、よってたかって叩かれて、どんどん伸びていく。細長くなっていく。これが相鎚を打つという行為だ。協同作業の中で、鉄片は形作られていく。

 そうしてああようやく刀らしくなってきた。できあがりか。

 違う。断じて違う。

 刀匠は、伸ばした鉄片を折る。せっかく伸ばしたのに。打って打って、時間をかけて、せっかくここまで伸びたのに。

 刀匠は鉄片を折る。そして重ねる。熱する。そしてまた、叩く。音がする。火花が出る。叩く。音。火花。叩く。音。火花。

 また伸びてきた。時間がかかった。弟子はくたくたに疲れている。

 だが伸びた鉄は、何度でも折られる。折っては重ね、折っては重ね、ひたすらに叩かれ続ける。飛び散る火花は鉄の中の不純物だ。熱せられ、叩かれることで鉄の一層一層は圧着されていく。そうしてその単純そうに見える動作の中で、鉄の成分は刀身の部位ごとに微調整され、一方では折れぬように硬く硬く、また一方では切れるように軟らかく軟らかく、途方もない時間をかけて、少しずつ錬りあげられていく。

 これがすなわち、鍛錬というゆえんである。その他さまざまな工程を踏み、これが出来上がるころ、一本の刀身の中で鉄は何千層にもおよんでいる。そうしてやがて砥ぎ師の技によって、光り輝くあの姿を手に入れるのだ。

 

 鍛えるというのは、そんなに簡単なことではない。やみくもに叩いて叩いて強くなるか。それではうすっぺらに伸びきって終わりだ。やがて熱は冷め、切れ味もなく、すぐに折れてしまう。削りだした木刀の方がよっぽど強い。

 折ってしまうのだ。そうして捨ててしまっては意味がない。折ったら重ねて、また、熱が加わらなければならない。それを何度も何度も繰り返していく。ひとりではなかなかままならない。相鎚を打つ者もいなければ。汗だくになりながら、目もつぶれそうになりながら、それでもやるのだ。叩いて叩いて折ってしまう。折ったものは重ねて熱してまた叩いて。それが鍛えるということだ。

 一本の刀ができるまで。その外面を形作ることもさることながら、刀身を作るには鍛錬があり、錬磨がある。途方もない数の人の手と、時間と忍耐が必要だ。

 しかし、ではその刀身というものはいったいなんだ。鉄とはなんだ。いきなりぽっとあるものなのか。

 鉄鉱石というものがある。硬い。石から鉄を取ろうというのだ。硬いものから硬いものを作る。なるほど合理的に見える。だがこれは西洋の刀剣作りだ。大量生産、大量消費。これらはすぐに折れてしまう。どれだけ着飾っても、芯が折れれば刀はおしまいだ。

 日本刀はなんとして作られるか。多くの人の手を介し遠大な時間をかけ、その原点となる素材は何なのか。

 じつはそれは、そこらへんの公園に転がっている。

 ときに、小学校の時分に理科の実験で磁石を扱ったことはあるだろうか。N極とS極で指を挟んで痛い思いをした人もいるかもしれない。しかしあんなものを教室の外へは絶対に持ち出してはいけない。もっと大変なことになるからだ。

 試しにいま磁石が手元にある人はそれをぽいと外に投げてくれるといい。窓からほうられた磁石は放物線を描いて遊具の列を越え、やがて砂場に着地した。あなたはそれを拾おうとする。するとどうなっている? 磁石はなにか、真っ黒のふさふさになっている。なお申し上げておくがここはトトロの世界ではない。

 それは砂鉄である。砂中に散らばる細かな鉄の粒子が磁力に引き寄せられてびっしりとくっついてくるはずだ。真っ黒な粒子は磁力線を描くように針状に連なり、磁石を放り投げたあなたはまっくろくろすけを拾ってくる羽目になってしまった。あとで先生に怒られるといい。

 実はこのまっくろくろすけもとい砂鉄が、刀の原料だ。炎を上げる土窯に砂鉄を流し込み数時間かけて空気と薪を送り込み続ける。このとき、あるいは刀身を熱する炉でも使われる、足で踏んで空気を送る装置がたたらというもので、もののけ姫のたたら場であるとかたたらを踏むという言葉はこれのことだ。踏む人を番子という。あんまり疲れるので交代制で、これをかわりばんこという。そうして火が止まって冷めた窯を打ち壊していくと、中には収斂されてひと固まりになった鉄が転がっている。これを叩く。あとは前述したとおりだ。あんなに小さい粒のひとつひとつを刀一本分になるまで集めるのは、いったいどれほどのものだろうか。

 

 わたしは自らを、一振りの刀にしたい。美しく、それでいて切れる。折れることなく、錆びても砥げば輝きを取り戻し、人に愛され、欲を言えば後世まで残るような、そんな刀に。

 そんな業物は世に幾振りとあるものではないが、だからといってナマクラでは終われない。少なくともわたしは絶対に、折れず、しなやかに、切れる存在でありたい。

 だから鍛える。鍛えねばならない。外面はあとだ。まだ人の手に渡るには早い。まだそう折れてもいなければ、そんなに叩かれてもいないのだ。いろんな砂鉄が集まって、熱せられて熱せられて、いまひと固まりとなろうとしている。そんなところでしかない。

 鍛えている最中、新しい砂鉄も見つかるだろう。こっちは鍛える。こっちは燃やす。そんな器用なことができるかはわからない。もしかしたらみないっしょくたに燃やしてしまうかもしれない。それでも鍛える。鍛える。ひたすらに火花を散らす。

 

 わたしは一振りの刀になりたい。いまはたたらを踏んでまごまごしているだけにも見える。でもいずれ、熱せられた鉄はやっとこで引きずり出す。

 そのとき、かわりばんこにでもいいのだ。

 誰かわたしに、相鎚を打ってくれるといい。