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懐中のトッケイ

わたしはここでかわいていく

ピクシーかよこ

   ピクシーかよこ

 

 かよこは妖精である

 四頭身ぐらいの頭でっかちで

 大きなつば広の帽子をかぶっている

 べつに羽が生えているわけではないのだけれど

 彼女が通ったあとは きらきらとまぶしい

 うすい空色のふっくらしたワンピースの内側から

 あれは 鱗粉がこぼれおちているのだ

 

 勝ち気に大きく開かれた 澄んだ泉のような目の上に

 それはそびえる大山塊のごとく ふとくりりしいまゆがあり

 つぼまった袖から ぴょこ とでている小さな手は

 ひらいたり また にぎったりして

 この世の空気のかたさを確かめているのだ

 

 かよこはわたしの机の上を縦横無尽に走り回った

 いずれ帰るところがあるのだろうとも思ったが

 それも彼女が言い出すまでは まあいいのだろう

 あちこちをきんきらきんにしてしまって

 そのうえに小さなあしあとがたくさんついていった

 拾ったらしいパステルのダブルクリップを肩にかけて

 なんだかごきげんな様子でステップを踏む

 

 もういくね とかよこは言う

 なにかお土産にあげようと思ったのだけれど

 かよこはもう みみかき棒のわたげにほおずりしていたので

 わたしは笑ってしまって ふいに目を細めたらもう

 かよこはいなくなっていた

 

 その夜わたしはまたひとつ笑うはめになった

 いったい いつのまにやったのか

 万年筆のインクが かよこの鱗粉でいっぱいである

 あのふとまゆめ

 しかたがないのでわたしは

 鱗粉まみれの文字で かよこのお話を書くことにした 

 

 

 

 

 

下:かよこ近影

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Ink or Sink

随筆

ピータンを知っているだろうか。漢字では「皮蛋」と書く。

これは中国料理の前菜のひとつで、「蛋」という字は蛋白質の蛋、つまり卵という意味がある。ピータンとは卵料理のひとつである。

しかしあれを料理、と言っていいのかどうかは、いまひとつ疑問の残るところだ。

というのも、ピータンが素材の状態から、形を変えて皿に乗り、卓に供されるまでには、常人の想像を遥かに逸する製造過程が隠れているからだ。

まずはピータンというものの正体だが、前述のとおり卵である。特にアヒルの卵で作られることが多い。卵といえばそれを生む鳥の種類によって大きさも色も様々だが、まあだいたいが白っぽい殻の中に黄身と白身が入っていて、それらは熱で固まって名前の通りの色になるものである。

それがどうしたことだろう。ピータンは白くも黄色くもない。ガングロなのだ。

おお、ピータン。親に向かってなんだそのダークマターは。

いったい、彼の身に何があったのか?何が彼をここまで追い詰めたのか?

それを知るためには、彼のたどってきた3か月間を追う必要がある。

まずはじめにアヒルの卵があった。

卵が一睡してから、ふと目を覚ますと、戸外で誰かが卵を呼んでいる。声に応じて外へ出て見ると、声は泥の中からしきりに卵を招く。覚えず、卵は声を追うて走り出した。無我夢中で駈けて行く中に、いつしか卵は泥炭に入り、しかも、知らぬ間に卵は左右の手でもみ殻をつかんで走っていた。何か身体中にアルカリが充ち満ちたような感じで、軽々とph値を跳び越えて行った。気が付くと、白身や黄身のあたりにアミノ酸を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既にピータンとなっていた。

もはやどうしてそうなったかという話ではない。そうなる運命にあったのだとしか言いようがない誕生背景。あんな暗黒物質が人為によって生み出されたのであれば、錬丹術はやはり存在したということになるだろう。

 

ピータンと同じように、どうして生まれてしまったのか理解のできない物質が、人間界にはやはり存在する。同じ食べ物の話をするのであれば、ピータンにもよく合わせられる、豆腐というのもそのひとつだ。

いったいなんなんだあの造形は。

豆を食べるのはわかる。

豆を炊いて食べるのもわかる。

だが炊いた豆を搾り始めたあたりからちょっと怪しくなってくる。大丈夫かお前?

とはいえ、まだうなずける範囲だ。

絞った汁を飲む。まあわかる。

絞ったカスも食べる。わからないことはない。

絞った汁に「にがり」を混ぜる。

ここだ。わからない。ぜんぜんわからない。

突然出てきて最重要キャラみたいな顔をしているこの「にがり」とかいうのは何者なのか。

調べてみるともともとは海水から塩を取る際に出る塩化マグネシウムを主成分とするものらしいが、いやそれはそれとして、いったい、なぜそれを豆に。豆汁に。 

こうした謎の製造過程を踏むものというのはだいたいが中国発祥であることが多い。なんと食に対する研鑽に余念のない一族なのだろうか。まったくもって尊敬に値する。

 

しかし、どうやらそれは食だけではない。

 

墨というものを知っているはずだ。誰しも小学校や中学校で食べたことはなくても触れたことぐらいはあるだろう。食べた経験のある人には申し訳ないが、残念ながらこれは食べ物ではない。せっかくの機会だ、今日を境に考えを改めてほしい。

人類最古の絵画といわれるフランスのショーヴェ洞窟壁画が描かれたのは約3万2千年前、最近の研究ではさらに1万年も以前から壁画が描かれていた可能性が示唆されているが、その当時ですらすでに絵には色があった。顔料である。色のついた鉱物を粉状にすり潰したものが主だが、黒色に関しては多く別のものが使われていた。それが油脂を燃やした際に周囲に付着する煤である。どうやらこれは古今東西共通であるらしい。

そんなことで数万年も前から壁にお絵かきしていた人類であるが、実に墨というものを発明したのは今からたった数千年前のことだった。

なぜそんなにも時間がかかったのか?

それもそのはずである。墨が黒いのは煤の色に他ならないが、かといって墨の成分が煤だけというわけではない。あの気の遠くなるほど細かい粒子を、ひとまとめに固形化させている、コロッケやハンバーグにおける卵のようなつなぎ、接着剤が必要である。(大丈夫だ、ピータンの話はもうしていない)

それがこいつである。

 

 

読めるだろうか。

事態がこんがらがってにっちもさっちもいかなくなった状態を膠着状態、などというが、その「膠」の部分。なるほどなにかをがんじがらめにしてしまう力はありそうである。

これを「にかわ」と読む。

あるいは、相手がそっけないときに言う「にべもない」の「にべ」の部分でもある。

この「にかわ」とかいうものに、油を燃やしてできた煤を練り練りして固めると、問題の墨ができる。

なんだ、簡単そうではないか。

そう思ったのならそれは大きな間違いだ。

「にがり」にしても「にかわ」にしてもなんだかよくわからないものにはなにかと「に」が付くようだが、こと膠のよくわからなさはその製造方法にある。

これも言ってしまえば簡単で、にかわ、と言う通りのことをする。

にかわ。

そうだ、皮を煮る。

皮を。動物の皮を。にわかには信じがたい。

もう本当に、本当にいいかげんにしてほしいぞ中国人。なぜ皮を煮たのだ。そこは普通捨てるところだ。なにか嫌なことでもあったのか。

どうしてもお前の心根が見えてこない。

(ちなみに前述の「にべ」というのは、スズキ科のニベという魚の皮を煮て作る膠が強固であったことから、親密な関係をいったらしい。だからにべもないというのは二人の間を接着することができなくてそっけない、という意味なのだという。)

語源は皮だが、膠は骨を煮ても作ることができる。要するに動物性の蛋白質が主成分なのだ。だから、ピータンの話はもう終わったのだ。少し離れてくれ。

常考える範囲であれば、動物の体は肉を食べるか、革をなめして着るか、骨を砥いで武器か飾りにするか、という程度の利用法しかないはずである。それがなんだ。食べるでもないのになぜ皮を煮たのか。

やっぱり何か嫌なことあったのだろう。思えばわたしも嫌なことがあるとすぐ、自分でも意味のわからない行動に出る。手でスリッパをはいたまま床や壁をこすったり、全裸で踊りながら胸や尻を乱打していることなどしょっちゅうである。似たようなものかもしれない。

かくして何かとっても嫌なことがあった古代中国人が動物の皮や骨をぐっつぐっつと煮たくって抽出されたコラーゲンのようなものに煤をねりねりしてできたものが墨である。

なんだってこんなものを、とは、もはやきくまい。

だれだって嫌な出来事は人に言いたくないものな。いまならわかるぞそのKIMOCHI。

そんな風にして出来上がった墨が以後何千年にもわたって数え切れぬ人々に厚く用いられていることを考えると、21世紀のわたしのスリッパスクラッチやピーチヒップタンバリンもいずれは何かの形で花開き数千年後の人々に愛されているかもしれないのだ。

実に元気の出てくる話である。流行に乗ればそのうち略されてスリッチとかピータンとか呼ばれたりするのだ。なんだ、やっぱりピータンの話だった。

あとはそう、「何かの形」が新聞の一面とかではないことを祈るばかりである。

 

at the BLACK HOLE

随筆

穴がある。

目の前に大きな穴がある。

困ったことに人間は、それを気にせずにはいられない生き物だ。

 

思えば小惑星がどっかんどっかん衝突してできあがったらしい地球という惑星に住んでいる以上、その誕生の舞台そのものが穴だらけで生まれてきたのだから、これはもう我々がまだ多細胞分裂を覚えていない時代から遺伝子に刻まれた太古の記憶とみて相違ないのだ。

しかし何万年も前に洞窟からでてきたというのに何を思い間違ったのか穴を横から縦に変えて居を構え、あげく文明に栄えある今日21世紀においていまだに「穴があったら入りたい」などと腑抜けたことを言っているのは事実人間くらいなもので、おそらくウサギがこの先進化の過程で巣穴を抜け出して道具を使い火を覚えうんたらかんたらスマートウサフォンをすいすい動かしている時分にはそんなことはまず言わない。では彼らは何というか?そんなことはウサギにきいてくれ。ウサギはなんでもしっている。

とかく我々は穴というものにとらわれ続けて生きてきたなんともしようのない動物である。しかもたちの悪いことに我々は言葉というやっかいなものを覚えてしまったがために、「穴」を単なる「穴」として観測することができない。

いいだろうか? 目の前に穴がある。

その他大勢の動物にとっておそらく穴は穴でしかない。せいぜい自分が通り抜けられるかどうか、肩骨・腰骨の幅より大きいか小さいかぐらいしか考えずに済んでいるのだが、いかんせん我々は言葉を覚えてしまった。これはやっかいなことだ。我々人間にとって穴とは単なる穴ではない。同じ穴でも掘る穴、空く穴、空ける穴、落ちる穴に覗く穴など、その原因用途はさまざまで、しかもそのどれもがみな一様に深遠なる趣をもって我々に対してくる。これには困った。いったい目の前の穴がどうしてできたもので、いったい何に使われて、どんなおそれのあるものなのか。我々はそれらを常に考えずにはいられない。そうしてそれを自分の身で試さずにはいられない。

あるいはのぞき、あるいは指をさしこむなどしてしまうのだ。

実に愚行である。

この穴はなんだろう?

わたしはかつて眼球に鋭い息を吹きかけられた。(まだ「穴」と「筒」の区別がついていなかったのだ。)

この穴はなんだろう?

わたしはかつて指先をゴカイに噛まれた。(驚いたことにゴカイは噛むのだ。デス・ワームとでも改名してほしい。)

人類が進歩したことは一度もない。

 

視点を変えれば、穴というのはそれ自体ひとつの境界であり、こちら側とあちら側を結ぶものでもある。トンネルというのはそのわかりやすい例だが、向こう側へ「抜ける穴」だけでなく底のある「掘る穴」にしたって、そこには内と外、影と光という強烈な二項対立がすでに生まれてしまっている。立派な境界である。

よく心霊譚なんかで穴を覗いたときにまかりまちがってみてはいけないものをみてしまったりするのはそのせいで、わたしもうっかり得体も知れぬ穴をのぞいてしまったときそのことを思い出してひやっとするのだが、幸いなことにわたしに霊感などというものは皆目備わっていないので、このほどまで無事に過ごしてきた。そんなものよりずっと怖い穴がある。

そう、目の前に穴がある。

なるほど穴とは境界である。こちら側とあちら側を否応なくつなげてしまうものなのだ。見えてしまうのだ。見られてしまうのだ。

あなたが深淵を覗くとき深淵もまたあなたを覗いているのだ、という有名な文句があったが、わたしの現状を鑑みるにいままさにそれである。

こまったことだ。指を入れたのがまずかった。人類は進歩しないのだ。

わたしは公衆トイレの鏡にズイとおしりを突き出してその様を確認した。なにやらおかしいな、と思った時点でやめておけばよかったのだ。もしかしてこれは穴だろうか? いや、どうだろう……お、小指が入るな? さてはこれは穴だな。なんと、人差し指もはいるではないか。なに? ちょっとまてよ……こうして自分で穴を広げているのだから世話がない。

わたしはわたしのおしりに開放してしまったゲートを鏡越しにまじまじと確認しながら「穴」ということを考える。境界の向こう側からうすい色のドット柄の下着がのぞき、暗色のズボンに明確なコントラストを与えている。誰かこの深淵をのぞきみただろうか。なるほど広がった穴は目の形に見えなくもなかった。鏡の向こうで、ドット柄の深淵がわたしを見つめ返してくる。うるさい、人のパンツを深淵っていうんじゃあない。

ところで鏡の効用のひとつは、現実にあることを「向こう側」の出来事にしてしまうことだろう。わたしは穴から下着が覗いているおしりをこちらへ向けている奇妙な風体の人間をその場に残し、トイレを出た。

頑張ればこれもダメージ加工ということにならないだろうか。

道行く人のズボンを見守りながら、わたしはロータリーの植え込みに座っておしりを隠していた。残念なことに鏡の効用は長くはもたなかった。別段人と会うわけではないのだけれど、どうも格好がつかないし、自分の体に意図せざる穴が空いているというのは落ち着かないものだ。

さてどうしたものか。コンビニに裁縫セットなんて売ってるだろうか? 寡聞にして聞いたことがない。見える範囲にコンビニがあるにはあるが、そこまでいって売ってなかったらどうする? わたしの深淵はその間だれにのぞかれるとも知らない。わたしはまだおしりの目での睨み方を知らないから、それは困る。

そうこうするあいだにも、わたしは針にも穴があるんだよなということをまんぜんと考える。とかく人の世は穴だらけである。我々はもう包囲されている。逃げ場はないのだ。

ああ、もういっそ新しい替えのズボンでも買ってしまえばいいのだ。

そう気づいた私は、目の前の駅ビルに入った衣類量販店を目指すべく、勢いよく立ち上がって、「ビリッ」という不穏な音を聞いた。

ああ。

あああ。

人の世は穴だらけ。ああしかし。だがしかし。諸君、穴があっても指を入れてはいけない。

わたしはバッグでおしりを隠しながら、できるだけ人を避けるようにして駅ビルに入った。まあ、そんなことをしても、避けれらる量ではなかったのだけれど。

まことに残念ながらわたしはウサギではないので、こんなときに言えることといったらただのひとつである。人類は進歩しないものだから、恥を忍んで申すところではあるけれど、こればかりはしかたがないのだ。

穴があったら、入りたい。