懐中のトッケイ

わたしはここでかわいていく

鉄風 鋭くなって

 鍛えよ。

 鍛えねばならない。そうした観念がわたしには数多くある。

 頭を鍛えよ。わたしにはまだ知らないものが山とある。何を知らないのかもまだ知ることができていない。

 目を鍛えよ。わたしは何を見るか。何が見えているか。見たいように見るだけでは、あの人の見た景色までは見ることができない。

 耳を鍛えよ。わたしは何を言われているか。それは小さな称賛か、裏返しの皮肉か、あけすけな罵詈か。聞き分けねばならない。そうして何を聞くべきかも。

 手を鍛えよ。わたしはその手に何をつかむか。きっといままで差し伸べられなかった手があった。握れなかった手があった。その代わりに握っているのは、いま、ペンだ。

 鍛えよ。鍛えねばならない。

 いったい何を?

 何物でもない、一切をだ。

 

 一本の刀が出来上がるまでに途方もない過程があるのをご存じだろうか。職人にしたって一人で全部できるわけではない。幾人もの人の手を渡り、初めて一本の刀ができる。

 外身から考えるとわかりやすい。さすがに現代で刀を持って歩いているひとがいないからといって、昔の人が抜き身の刃物をぷらぷら持ち歩いていると想像する人は少ないだろう。持ち歩くには何か入れ物があるはずだ。

 それが鞘だ。ものによってさまざまであるが、木、金属、革、漆など、さまざまな素材を組み合わせてできあがっている。鞘師と呼ばれる職人がいて、これの制作にあたる。あまり詳しく知らない人でも「刀は武士の魂!」のような文言は聞いたことがあると思うが、その外面を飾るのであるから鞘というのはなかなかに重要な部品である。この鞘からはひもが伸びていて、鞘を差した帯にこれをくくりつけることで固定したり、部屋に飾る際のかっこいい結び方などもあるのだが、これはまた別の話。刀の形に合わせて作るため、一本一本長さや反りが違い、鞘はその刀専用に作られるものである。反りが合わないとか元の鞘に収まるというのはそういうことからきている。

 鞘の他にもまだ外身はある。よくアニメや時代劇で刀を抜く前に「チンッ」と親指で鞘から押し出すようなしぐさをするが、あのとき押し出されているのは何か。

 鍔である。刀の刀身と柄の間にある平べったい金属の板だ。つばぜり合いというのは鍔と鍔が接するくらい刀を噛ませ合って競り合っている状態のことだ。鞘が横からよく見えるのに対し、鍔は前からよく見える。鍔の形もさまざまだが、たいてい中心に沿って二つの大穴が空いている。ただのデザインではない。また別の小柄・笄というアイテムを装備するための穴なのだ。簡単に言うとめちゃめちゃ小さな小刀と、まげを整えるための特殊なコテみたいなもので、お侍のエチケット用品である。鍔だけでなくこれらもまた専門の職人により作られ、小柄にももちろん小さくきらびやかな鞘がある。

 しかし鞘と鍔だけでは刀は飾れない。だいいち、どうやって握るのか。

 もうひとつ重要な外身は、柄だ。刀身の根元を包み、刀身と手を保護すると同時に、ここでも大いに着飾る。恐らく多くの人のイメージにあるのは、白いひし形の模様だろう。あれは一番外側に巻きつけたひもで作られている。素材を固定し、グリップを確かにする機能だけでなく、そこには整えられた美がある。ひもの下、つまりひし形で見えている白い部分には何があるか。少し驚かれるかもしれないが、あれは鮫皮だ。なにもわさびをするだけのものではない。軽量かつ頑健な素材として好まれているが、あんなに小さな持ち手とはいえ、見える部分として粒の大きな皮が使われ、これがグリップをより強固にしている。鮫皮とひもの間には実はもうひとつ目貫という金具が挟まれる。ひし形の間から細かに装飾された金具がこれで、刀の中でも特に目立つ部分として凝った意匠のものが多い。注目の集まる目貫き通りというのはここから来た言葉だ。あとはまあほかにいろんな部品があるにはあるがひとまず置いて、これらを竹の釘で留めれば柄の完成である。もちろん、柄巻師という職人が存在する。

 そんなわけでようやく外身が出来上がった。もう大変だ。こういった外面は職人たちが好き勝手に作るわけではなく出来上がったとき全体が統一されていなければならないので、もちろんそこには打ち合わせであるとか、あるいは職人同士の技のかけあいのような特殊なコミュニケーションもあったことだろう。いわば預かった刀の総合プロデュースがこういった職人たちの仕事だ。

 

 しかし刀は刀、刀身があってこそだ。竹光ではいられない。

 

 刀が前述の鞘師や柄巻師といった拵の職人の手に渡る前、砥ぎ師が刀身としての仕上げをする。これもまた専門職で、製作だけでなく修理や調整もこなした。刀が砥ぎ師に渡る前、ここで刀身が作られる。刀匠とよばれる人たち、鍛冶の仕事である。

 やっとスタート地点に返ってきた。鍛冶、すなわち、刀を鍛えるのはここだ。

 鍛える、という言葉は大まかにいうと金属を叩いて強くするということだ。これ自体はあながち、多くの人の間で齟齬があるわけではないように思う。しかしこれはあくまで、大まかな意味だ。実際の鍛えるという動作について少しここに書く。

 やっとこで熱した鉄片を固定し、大きな鉄鎚を振り下ろし、叩く。カイイン、と音がする。パッ、と火花が散る。もうひとりがさらに叩く。音がする。火花が散る。もうひとりがさらに叩く。音が。火花が。叩く。音。火花。叩く。音。火花。

 鉄を鉄で叩くわけで、しかも叩かれる方の鉄は熱されている。鉄は熱いうちに打て、というのはこのことで、熱された鉄は打たれるごとにその展性を発揮し、徐々に形を変えていくのだ。炉から取り出されて赤くなった鉄が、よってたかって叩かれて、どんどん伸びていく。細長くなっていく。これが相鎚を打つという行為だ。協同作業の中で、鉄片は形作られていく。

 そうしてああようやく刀らしくなってきた。できあがりか。

 違う。断じて違う。

 刀匠は、伸ばした鉄片を折る。せっかく伸ばしたのに。打って打って、時間をかけて、せっかくここまで伸びたのに。

 刀匠は鉄片を折る。そして重ねる。熱する。そしてまた、叩く。音がする。火花が出る。叩く。音。火花。叩く。音。火花。

 また伸びてきた。時間がかかった。弟子はくたくたに疲れている。

 だが伸びた鉄は、何度でも折られる。折っては重ね、折っては重ね、ひたすらに叩かれ続ける。飛び散る火花は鉄の中の不純物だ。熱せられ、叩かれることで鉄の一層一層は圧着されていく。そうしてその単純そうに見える動作の中で、鉄の成分は刀身の部位ごとに微調整され、一方では折れぬように硬く硬く、また一方では切れるように軟らかく軟らかく、途方もない時間をかけて、少しずつ錬りあげられていく。

 これがすなわち、鍛錬というゆえんである。その他さまざまな工程を踏み、これが出来上がるころ、一本の刀身の中で鉄は何千層にもおよんでいる。そうしてやがて砥ぎ師の技によって、光り輝くあの姿を手に入れるのだ。

 

 鍛えるというのは、そんなに簡単なことではない。やみくもに叩いて叩いて強くなるか。それではうすっぺらに伸びきって終わりだ。やがて熱は冷め、切れ味もなく、すぐに折れてしまう。削りだした木刀の方がよっぽど強い。

 折ってしまうのだ。そうして捨ててしまっては意味がない。折ったら重ねて、また、熱が加わらなければならない。それを何度も何度も繰り返していく。ひとりではなかなかままならない。相鎚を打つ者もいなければ。汗だくになりながら、目もつぶれそうになりながら、それでもやるのだ。叩いて叩いて折ってしまう。折ったものは重ねて熱してまた叩いて。それが鍛えるということだ。

 一本の刀ができるまで。その外面を形作ることもさることながら、刀身を作るには鍛錬があり、錬磨がある。途方もない数の人の手と、時間と忍耐が必要だ。

 しかし、ではその刀身というものはいったいなんだ。鉄とはなんだ。いきなりぽっとあるものなのか。

 鉄鉱石というものがある。硬い。石から鉄を取ろうというのだ。硬いものから硬いものを作る。なるほど合理的に見える。だがこれは西洋の刀剣作りだ。大量生産、大量消費。これらはすぐに折れてしまう。どれだけ着飾っても、芯が折れれば刀はおしまいだ。

 日本刀はなんとして作られるか。多くの人の手を介し遠大な時間をかけ、その原点となる素材は何なのか。

 じつはそれは、そこらへんの公園に転がっている。

 ときに、小学校の時分に理科の実験で磁石を扱ったことはあるだろうか。N極とS極で指を挟んで痛い思いをした人もいるかもしれない。しかしあんなものを教室の外へは絶対に持ち出してはいけない。もっと大変なことになるからだ。

 試しにいま磁石が手元にある人はそれをぽいと外に投げてくれるといい。窓からほうられた磁石は放物線を描いて遊具の列を越え、やがて砂場に着地した。あなたはそれを拾おうとする。するとどうなっている? 磁石はなにか、真っ黒のふさふさになっている。なお申し上げておくがここはトトロの世界ではない。

 それは砂鉄である。砂中に散らばる細かな鉄の粒子が磁力に引き寄せられてびっしりとくっついてくるはずだ。真っ黒な粒子は磁力線を描くように針状に連なり、磁石を放り投げたあなたはまっくろくろすけを拾ってくる羽目になってしまった。あとで先生に怒られるといい。

 実はこのまっくろくろすけもとい砂鉄が、刀の原料だ。炎を上げる土窯に砂鉄を流し込み数時間かけて空気と薪を送り込み続ける。このとき、あるいは刀身を熱する炉でも使われる、足で踏んで空気を送る装置がたたらというもので、もののけ姫のたたら場であるとかたたらを踏むという言葉はこれのことだ。踏む人を番子という。あんまり疲れるので交代制で、これをかわりばんこという。そうして火が止まって冷めた窯を打ち壊していくと、中には収斂されてひと固まりになった鉄が転がっている。これを叩く。あとは前述したとおりだ。あんなに小さい粒のひとつひとつを刀一本分になるまで集めるのは、いったいどれほどのものだろうか。

 

 わたしは自らを、一振りの刀にしたい。美しく、それでいて切れる。折れることなく、錆びても砥げば輝きを取り戻し、人に愛され、欲を言えば後世まで残るような、そんな刀に。

 そんな業物は世に幾振りとあるものではないが、だからといってナマクラでは終われない。少なくともわたしは絶対に、折れず、しなやかに、切れる存在でありたい。

 だから鍛える。鍛えねばならない。外面はあとだ。まだ人の手に渡るには早い。まだそう折れてもいなければ、そんなに叩かれてもいないのだ。いろんな砂鉄が集まって、熱せられて熱せられて、いまひと固まりとなろうとしている。そんなところでしかない。

 鍛えている最中、新しい砂鉄も見つかるだろう。こっちは鍛える。こっちは燃やす。そんな器用なことができるかはわからない。もしかしたらみないっしょくたに燃やしてしまうかもしれない。それでも鍛える。鍛える。ひたすらに火花を散らす。

 

 わたしは一振りの刀になりたい。いまはたたらを踏んでまごまごしているだけにも見える。でもいずれ、熱せられた鉄はやっとこで引きずり出す。

 そのとき、かわりばんこにでもいいのだ。

 誰かわたしに、相鎚を打ってくれるといい。