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懐中のトッケイ

わたしはここでかわいていく

モノノケダンス

自分は正常だなんて思い始めたときから、人は狂い始めるのだ。

 

動物というのはいいものだ。なにせよく動く。

動物というのはいいものだ。ともすればかわいい。

しかし我々はどうもこの動物という存在を指す時に、我々を抜いて考えてしまっていることが多い。これは理解が狭いことだ。

さらに言えば、動物といってその中でも哺乳類のみを指しているようなことさえある。これはたいへん狭い理解だ。

目の前のものを分類し、名前をつける、ということを覚えてしまった我々はどうも自分ばかりを度外視するようだが、どうしたって我々も本来は動物であるはずなのだ。ところがたいていそうは考えないものだから、他の動物の特定の行動(仲間を助ける様子や子をかばう親)を指して「人間じみた」だとか「人間的な」だなんて得意がって言ってみせることがある。

どうもうさんくさい話だ。

本当に我々は、そんなに「人間的な」動物なのだろうか。

ではないのだとしたら、それはもう動物に見られる行動である以上、あくまで「動物的な」ものだ。我々が勝手に名を冠していいものではないはずなのだ。

翻ってみれば、相手に乱暴を働いたり衝動のままにうごくようなことを「動物的」「けもののような」と表されることがあるけれども、どうも調べると彼らはその表現に反して極めて理知的で、我々ほどとんちんかんな生き物ではないようだ。序列や繁殖に関すること以外で同族を傷つけはしないし、中でも社会性の高いけものは、前述のような目的ですら同族を傷つけないように配慮し、最終的にはお互いの姿勢によって勝敗を明らかにするように発達しているものもある。なんとも「人間的」な営みが行われているではないか。

 

人の徳についてわざわざ説かなければならないのは、それが当たり前でなくなってしまったからだという意味の言葉をなんとかいった。こうした「人間み」を表す言葉たちが頻繁に使われるのも、もしかしたらそのせいかもしれない。どうも人間は人間に過剰な期待と信頼を抱きすぎているようだ。我々はそんなに大した動物ではない。

 

人間はちょっと考え過ぎなのではないだろうか。

 

例えば雪を見てはしゃぐイヌや、こたつに潜り込むネコ、日向ぼっこをするカメに、歌い上げる小鳥たち、それぞれがそれぞれに応じた行動というのを持っているものであろうとわたしには思われる。なにも、肩肘張って「人間らしく」いようとすることはないのではないか。

うれしくって走り出していくような。

恋人を取られて殺してやりたくなるような。

動けなくなるまで食べるような。

涙を流して抱き合うような。

ひとえにわたしは、そんな「獣性」を愛する。

いっそ馬鹿な顔をして踊り狂っているぐらいがお似合いの我々に、しかしなお、だからこそ、詩をうたう心が宿っていることを、わたしはさいわいに思う。

ノってきたなら、それがすべてなのだ。

 

だからそう、きみのうたを聞かせてくれ。

わたしはそれで踊るから。