懐中のトッケイ

わたしはここでかわいていく

メリッサが笑うとき

 彼女と初めて出会ったのは、どこかの静かな公園だった。

 中学生の時分である。僕は学校の遠足の班行動を途中で抜け出した。なにも、特に行く宛があったわけではない。数少ない友人と呼べそうな者たちの班からあぶれ、無理やり他の人間と班を組まされていた僕は、その慣れない空気にほとほと嫌気が差していたのだ。要するに、いたたまれなかったのである。僕は次の目的地へと班の人間が移動し始めると、その最後尾をついていくようにしながら、徐々に彼らとの間隔をとり、すきを見てそっと脇道に逸れた。そうしてすぐ、少しの間路地を走った。とてもどきどきしたのを覚えている。あの遠足がどこだったのか、班には誰がいたのか、そんなことは忘れているくせに、あのときの頭まで響くような心臓の音と、握りこぶしに滲んでいた汗の感触だけは、なぜだか今も僕の頭から離れてはくれない。

 僕は遠足のしおりで地図を確認しながら、集合場所からあまり離れないようにだけ心がけた。そうしてひと気のない公園を見つけると、小さな噴水の見えるベンチに腰を落ち着けることにした。額から噴き出た汗が頬を伝い、足元の石畳の色をいくつも濃くしていたからには、夏か、春の終わりぐらいのことだったのだろう。

 人の中を生きるのは厳しく、自分を理解し包み込むような存在は決して現れないのだ、と中学生風情に世の一切を恨みながら、足元に落ちた汗のあとを眺めていた僕は、そこへいつのまにか入り込んでいた小さい人影に気がついた。顔をあげると、目の前に五歳ぐらいの女の子が立っている。そうして、僕の顔をじっと見つめているのである。

 ここで「こんにちは、どうしたの?」とでも声をかけられるなら、その人は相当人間ができていると言っていいだろう。僕は無論できていなかった。幼女相手に呆けたような顔を晒して、何か言ったほうがいいのかと口をぱくぱくさせながら、かといって何一つ満足な言葉も浮かばず、どうせ浮かんだところで言う勇気も出ず、ただ平静を装って相手を観察することしかできなかった。

 女の子は黒に白い水玉のワンピースを着て、肌は真っ黒に焼けていた。髪も日焼けのせいか茶色がかって明るい。前髪は眉の上で切られて、他は耳の下まで伸びていた。目は一重で細く、なめらかな顔の輪郭は僕に燻製玉子を彷彿とさせた。

「おにいさんばかなの?」

 突然そんな声が僕にめがけて発せられた。キョロキョロと周りを見渡すも、そこには人っ子一人いない。

「やっぱり、ばかみたいね」

 そうして前に向き直ると、目の前の燻製玉子が僕に侮蔑の目を向けてため息をついている姿があるではないか。僕はたじろぎつつもなんとか言葉を探したが、気が動転していたのか、やっと出てきた言葉は「なんだこれ」という要領を得ないものだった。

 そんな僕に燻製玉子はもう一つため息を食らわすと、「ギザギザするから、かえるね」となんだかよくわからないことを言って、小さな足でずかずかと公園を出ていった。そうして僕は担任教師から怒りの電話がかかってくるまで、彼女の行ったあとをずっと眺めていたわけである。集合時間は、とうに過ぎていたようだった。

 これが、僕と彼女との初めての邂逅だった。

 

 大学生の時分である。僕は駅前を流れる大きな川の土手をふらふらと歩いていた。橋の上をごうごうと車が走っていく。このまま何かの拍子に橋が落ちて、僕の身に瓦礫が降りかかりはしないかと思う。これは危惧するのではなく、期待していたのだ。なにせ、そのときはとてもそんな気分だったから。

 ずばり言うと僕はこの少し前に失恋した。フラれたのだ。それもこっぴどく。映画でも漫画でも聞いたことのないようなセリフで、食い下がる余地もなく、それはもうひどくあっさりとフラれてしまった。今にして思えばなにをそんなに落ち込むことのあろうかと言えなくもないが、こと次第は恋慕の情であるから、過去や未来の自分がなんのかんのと言ったところで、他人の言に他ならない。この話は、そのときはそうであった、というそれ以上でも以下でもないのだから。

 土手をさまよう僕の身体はやがて橋の下へ吸い込まれていった。その堅固たる鉄骨をにらみ上げ、いまに落ちる、もう落ちる、そら落ちる、などと念じながら歩いていたが、橋は一向に落ちない。鉄骨にはサビひとつ見つからなかった。そうしてついに、僕の身体はもう橋の外へ出ようとしていた。いまだ、それ、もうちょっとだ。

「――――――」

 ふと、声をかけられたような気がして、僕は前を見た。気がしただけで何が聞こえたわけでもなかったのだが、果たしてそこには人が立っていた。

 前から歩いてきたであろう相手は一瞬ぎょっとしたように後ずさったが、すぐに気を取り直したのか、僕の脇をすり抜けて橋の影へと入っていった。僕はちょうど影から光の下へ姿を現したかたちで、なるほど相手にはいきなり人が現れたように見えたのかもしれない。少し肩越しに振り返っただけで、僕はそのまま橋の反対側へと土手を歩いていった。

 そのうちに僕はいつしか、まだだぞ、今じゃないぞ、と遠ざかる橋に向かって念じていたように思う。

 

 翌日も気分がすぐれず僕は土手にきた。そうして橋の下の、冷えたコンクリートに横になって、頭上を走る車の振動を感じながら、うつらうつら夢と現をさまよっていた。とにかくもう、なにもする気が起きなかったのである。恋はかほどに度し難い。

 目をつむっている間に、ときどき誰かが足元を通っていくのがわかった。ジョギング。犬の散歩。自転車。そのたびに、僕がこうしていても少しずつ時間は流れていることを、否応なしに知らされる。

 やがて、また誰かが歩いてきて――しかし、通り過ぎてはいかなかった。近くに腰掛けたのか、荷物をおろす音が聞こえる。それが果たして夢なのか、現実なのか、目を閉じている僕にはわからなかった。つい先日僕を拒絶した女性が、すぐそばにいることを想像する。そうして微笑みかけてくる。ありえない話だった。馬鹿みたいだった。ゼミの教授を想像する。しばらく顔を出していないことは確かに悪いと思っていた。だがありえない話だった。僕はすでに見切りをつけられていた。やがて頭のなかで、そばに腰掛けている人間の顔がぐにゃぐにゃにゆがんでいく。もう一体全体だれでもない、そばにいるのはだれでもない。なんだかよくわからない、えたいのしれない、知らないだれかが、僕の隣にいるのだ――。

 いつのまにか僕は目を開けて、隣の人を見ていた。隣の人も僕の顔を見ていた。知らない顔だった。当たり前である。隣にいるのは知らない人だった。僕もまた、相手には知らない人だった。

「お兄さん、昨日もいたよね」

 しかしそれは、僕の思い違いであったらしい。相手は僕にそんなふうな言葉をかけた。夢現を脱して、僕は少し身を起こして相手を見る。女の子だった。高校生だろうか。その制服がどの段階を示しているのか、地元の者ではない僕にはわかりかねた。

 そう言ったきり彼女は僕から目を背け、橋の鉄骨を見上げた。その横顔にもやはり見覚えがなかった僕は、仕方なしに彼女と視線を同じくした。僕があれだけ落ちろと願った鉄骨は、昨日となんら変わりなくそこにあった。

「なんかさ、胸がギザギザするとここに来るんだよね」

 彼女が使ったその妙な言い回しに、僕は聞き覚えがあった。もう一度顔をよく見る。しかし、やはり、見覚えはなかった。目の前の女の子はしっかりと化粧をしていて、僕が覚えていた顔とは、見比べようもなかった。僕はまた、鉄骨を眺めに戻る。

 無言の二人の上を、車はひたすらにごうごうと過ぎ去っていった。

「じゃあ、わたしはもう行くけど、」

 しばらくして立ち上がると、彼女は僕に声をかけた。

「あんまり馬鹿なこと考えるもんじゃないよ、お兄さん」

 そういって橋の外へと歩いていく彼女を、僕はぼうと見送った。そのなんだか見透かしたような口ぶりを僕は少し懐かしく思い、そうして白日のもとで振り返った彼女の顔の輪郭が、僕の中であのときの燻製玉子とぴったり重なった。

 僕はそのあと、翌日も、その翌日も、その橋の下へは行かなかった。彼女ももう、来てはいないような気がした。名前も知らない彼女に、今はもう確かめるすべもないが、きっとあの日の燻製玉子の彼女であったろうと、僕はそう思う他無かった。

 こうして僕は、おそらく彼女と、すでに二度出会ったのである。

 

 僕には今、彼女の顔を真正面から拝む機会が訪れていた。そうして、実に三度目にして、やはり、この子であったのだと確信した。しかし、この三度目は残念ながら、もう四度目がないということをも示していた。

 僕の目にしている彼女は、最初に会ったときのムスっとした表情でもなければ、二度目のように輪郭だけをたたえたものでもなく、新聞の紙面の楕円の枠の中で笑っていて、その下に名前と年齢が書かれているものだった。

 彼女は死んだのだった。高速道路での事故だということで、同乗していた三歳の息子ともども亡くなったようであった。彼女の笑顔の隣に、幼い、玉子のような顔をした男の子が映っていた。

 そのときにして、彼女は僕より七つの年下で、こんな名前だったのだと僕は初めて知ることとなった。

 りさ、といったらしい。

 きれいな名前であった。

 僕は唖然とする中になにかこみ上げるものを感じながら、覚えず手近なハサミを手に取っていた。記事を切り取ると、静かに折りたたみ、折りたたみ、小さくして、庭の一角へ向かった。

 先頃妻がせっせとこしらえていた小さな花壇には、いくつかハーブらしきものが植えられていた。やわらかく耕されたばかりの土なら、まあ掘り返しても目立たないだろうと思う。僕はそれらの間に指で穴を作ると、ポケットにしまいこんでいた紙片を取り出して、その中へ寝かせた。無理に小さくたたんでいた紙がゆっくりと開かれていくのを見ながら、僕はその上に土をかけていく。そうして見栄えが以前と変わらないかを確認してから、静かに、手を合わせた。

 

 しかし、もしあとで妻に見つかって怒られたときはどう言い訳をしようかと考える。ただの新聞紙とはいえ、気味が悪いと思うだろうし、かといって埋めてしまったものを戻すのも気が引ける。そういうガーデニングのやりかたをテレビで見たんだ、といえばどうにか騙せるだろうか。それとも新書のほうが勝手がいいだろうか。

 そうやって馬鹿なことの一つも考えて、あの声が降ってくることをどこかで祈っている自分がいた。さっきの新聞をうちやっておいたソファーに深く腰掛けて、そんなことはもうないのだと思った先から、少しだけ、僕は名も知らなかった彼女に涙した。

 あのハーブはきっと、よく育つだろう。