懐中のトッケイ

わたしはここでかわいていく

約束は赤い窓辺で

一通を待つのがつらい人がいる。

一通が来るのもつらい人がいる。

 

里帰りの季節だ。

学生は言わずもがな、社会人はお盆に連休を合わせて、地元へ帰って家族と過ごす人が多かろう。それに伴う墓参りやら親戚回り、それだけならいいものの、やれ子供だ結婚だと要らぬ波状攻撃を受けるのが目に見えて、休む前から憂鬱だというひともいるかもしれない。

わたしもまた、この時期にひとつの憂鬱を抱える者である。しかし、今挙げたような理由ではない。

これはまことに、失礼な話なのだ。

 

「高校の同級生から、LINEが来る。」

 

この事実を世の人はどう受け止めるだろうか。

せっかく地元に帰るんだし久しぶりに会おう、と乗り気になる。

他にも誘ってみんなでご飯でも食べに行こう、と電話帳を探す。

それもよかろう。わたしだってそうしたい。かつて我々がそういう関係であって、今もこれからも、彼らとそういう関係でありたいのならば。そう、ならば、だ。

時の流れというのは残酷にして慈悲はない。10年もあればなにもかも変えてしまう。例えばあの駄菓子屋は一度更地になってその上に家が建った。懇意にしていた町医者はいつのまにか廃業した。三本向こうのいじめっ子の家は駐車場になった。SNSには結婚と出産の報告が舞い踊る。なにもかもが変わっていく。

だがそうでなくてはならないのだ。そうでなくっちゃいけないのだ。取り残されるような気分は、幸いにしてまだない。そうして、わたしもまた変わっていることを、まだ変わっていられることを知らされる。いいのだそれで。それでこそなのだ。

 

しかしわたしの元へはLINEが来る。

高校の同級生から、LINEが来る。

 

地元に友達がいないんだよね、とわたしは人に言う。嘘をついているわけではない。かつて関係があった小中高の同級生たちで、積極的に連絡を取っていまどうしているのか知りたい人間なんて、もうそうそういないのだ。

もちろん、もともと友達が少なかったのもある。ではその少なかった友達はというと、例えばある人は、非社交的な自分にそれでも付き合いを続けたいと思わせるほど魅力的な人物で、彼から久しぶりの連絡をもらったときのわたしの喜びようと言ったらなかった。あのとき仕事中でなければ、もっと彼の元気な声を聴いていたかったのに。

しかしそれは少ない中でもさらに極めて稀有な存在だった。そんな人は何人もいない。ではあとの者らはなにかといえば、当時の自分が寂しさを紛らわすために寄り添ったところに、偶然居合わせた人々とでも言った方が適当だ。そのときは特に見えていなかった。見ようともしていなかった。ただそこにいればよかったし、それで心地がよかったのだから。

今にしてみれば、それらは有象無象であったと言わざるをえない。連休になるとLINEをよこすその同級生も、どうやらそのうぞうぞしたかたまりの一部だった。

成人して、大学を卒業して、地元に帰ってきて――そうこうする間にもたくさん連絡は来た。その数だけわたしは会った。他のメンツも誘って会うこともあったし、二人で会うこともあった。

それが当たり前だと思っていた。でもだんだんわたしは気がついてきたのだ。

 

この人は、もしかしたら何も変わっていないのではないか、と。

 

高校を出てもう10年になる。10年である。全部が全部でないにしろ、10年あれば人は変わろう。しかし彼女は変わらなかった。変わってくれなかった。わたしはこんなに変わっているのに、何も変わっていてはくれなかった。不変は罪か?それとも美徳か?わたしにはそんなことはわからない。ただあのときの関係を引きずったまま、あのときと同じ態度で、目の前のわたしにあのときのわたしを見出して、語りかけてくるのが、わたしには我慢ならなかった。わたしは今こうやって生きているのに。彼はあんなにも今を生きているのに。君はこの狭い街でいったいなにをしていたんだ。語るべきことも持たないまま。

比べることは愚かだろうか。わたしはともすれば泣きそうだ。

こいつは過去に、あぐらをかいている。

 

「お盆はいつ帰ってくるの?空いてる?」

「帰らないよ」

 

君のためにはもう帰らないし、わたしが帰る場所に君はもういないんだ。

 

「忙しいんだね。月末ごろはどう?」

 

介錯にさよならも言えないわたしは意気地がない。

その後の返事を、今年のわたしはいつまでも書かずにいる。